今朝、木々の青さに見とれながら、駅までの道を歩きながら、フト、10数年前、人生のどん底から立ち上がるきっかけとなった出来事を思い出しました。
なぜ今頃こんなことを思い出したんだろう?と考えていたのですが、今日のお客様との会話の中で、そのことについて語ることになったのです。そう、まさにシンクロニシティ

これは間違いなく何かのシグナル

ということで、私の生きるベースになっている出来事を

小さい頃から何故か、“私は何のために生きているの?” とか、“生きている意味はあるの?” などということを考えてしまっていました。 ← 後になって気づいたけど、私かなり変わっていたみたい

理想と現実の自分のギャップに悩みながら、そんな自分が許せず、大嫌いで、でもその苦しみから抜け出すための出口を探していました。
そして20代の半頃、もう私は生きていてはいけないんじゃないかというような失敗をしました

大切な人を裏切り、巻き込み、それまでの人生の全てを失うようなことを...
そのときの私は、もう“死”んでしまったほうが良いのではないかと思っていました。
でもそう思いながらも、神様に“私は生きていく価値があるのでしょうか?”と尋ねていました。
(幸い私は“神様”の存在を信じる家庭環境にあったため、無意識のうちに、神様に問いかけていたんです。
「神様」、人によっては「大いなる存在」とか「見えない存在」、「見えない力」という表現だったりするのかも知れませんね
)“私は生きていても良いのでしょうか? こんな私でも生きる意味があるのでしょうか?”と。
毎日、寝る前になると問いかけ、眠る、そして朝が来る、そんな日が続きました。
神様からの答えが無いまま、毎日毎日、どんなにぼろぼろになっても必ず朝が来たんです。
そしてある時気づきました。
朝が来るということは、生きていても良いんだよ
という神様からの答えであったことを
命があるということが、神様からの祝福であり、価値があるということを
涙が溢れました。
生まれたときから、神様は見守り、命をはぐくんでいてくれたこと、生きていること自体が神様からのギフトであったこと、それは紛れも無い事実であると
今ももちろん、理想にはほど遠く、ダメダメ人間だったりするし、日々失敗はするし、人を傷付けてしまうこともある。まだまだ未熟だなぁと落ち込むこともいっぱいある。
でも、そんな自分も今では好きだと言えます。慈しみ、やさしく包んであげれるようになりました。
だって、
未熟だからこそ、まだまだ学ぶことがあるからこそ“命”があり、新しい一日が与えられている。まず、自分が自分のことを大切に思ってあげなきゃ可愛そうじゃない

自分のことを粗末にすることは、自分の人生を粗末にすることですもの
そしてなにより、自分の人生は自分自身が作り上げるもの
さっきの自分より、ちょっとだけ成長できている自分がいればそれでOK

たまには後退したっていいじゃない

頑張れない時があってもいいじゃない
だって、それでも今があるのだから
新しいステップを踏める、瞬間(いま)が与えられているのだから
素敵な今に心から感謝